2010/3/7 Khuzdarの人々(2)


Runda Bazarにて。移動屋台でブラヤニを食べた(写真左のテント下)。屋台を営むAjap Khanさん(50歳)はとても温和で親切な人だった。(撮影拒否だったのが残念。)

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はじめは見慣れぬ外国人(私)を警戒していたが、次第に若者を中心に人が集まってきた。



アフガンのカズニ出身のMuhammad Zaher Khanさん(35歳、写真中央)。関連記事
ここでは真顔で「出て行け」とジェスチャする人もいて、写真を撮れる人は限られた。結局、親切にしてくれた人たちからも「治安が悪いから」と出されてしまった。



愛嬌のある兄弟(12歳、9歳)に連れられて住宅街を歩いた。市場なら一人で歩けるが、外国人が住宅地を歩き回れば正に不審者である。住宅地では、市場には殆どいない女性や、外で元気に遊ぶ女の子も見られた。写真は撮れなかったが子供たちはフレンドリーで楽しかった。(結局、大人たちに「危ないから」と出されてしまった。)
写真は、最後まで案内してくれた弟のAmed君。



Amed君と訪れたバイク塗装屋。店主のAfzalさん(写真後ろ中央)はクエッタ(Quetta)から働きに来ていて、流暢な英語を話す。Naifさん(写真後ろ左から2人目)は空手経験者で黒帯だそうだ。
住宅地からついてきた子供たちは店の外に追いやられ、窓にへばりついて中の様子を覗いていた。そのうちの一人Shah Zah君(4年生、10歳、写真手前左)は自ら「(英語の勉強のために)外国人と会話をしたい」と言って入ってきた。謙虚さも含めて好感の持てる少年だった。親は物売りだそうだが、とても良い教育(しつけ)を受けていることが伺えた。



ゴミ回収屋(リサイクル屋)のSami Ullahさん(24歳、パタシュトゥン人、写真右)、Noordinさん(30歳、バローチ人、写真左)。
街で店を営む人はパシュトゥン人も多く、とくに向こうから声をかけてくるのはパシュトゥン人が目立った。バローチ人の母語は、バローチ語とブラウィー語に分かれるそうだ。(帰国後、ブラーフーイー語のことだと分かった。)



計量するNoordinさん。ゴミ(金属など)は25Rs/kgで買取り、クエッタにて28Rs/kgで売るそうだ。輸送費に2Rs/kgかかるので、1Rs/kgが利益になる。



Sami UllahさんもArifさん(写真右)も昨晩、食堂でゲームをしていた連中である。
「暑いから歩きたくない」「外国人と歩くのは嫌だ(危険だ)」という理由で彼らは私の散歩に同行してくれなかった。



自動車修理のメカにクスImam Din Ghulam Mohiuddinさん(45歳、写真右)さんは以前ドバイで働いていたそうだ。息子のSnaullah君(19歳、写真左から2人目)は5年前に学校を出て父の店を手伝っている。写真手前に置いてあるのはトラックのサスペンション。


この店の隣で、愛車のサーフ(トヨタ車)を修理に出していたZia Ul Islamさんと話をした。彼は鉄鉱山で働くバローチ人だ。
「なぜバローチ人がパンジャブ人を嫌うかって?バロチスタン州は金、銀、鉄、ガス、大理石と資源があるが、パンジャブ人が利権の一部を奪っているからだ。先日3/1の大学での爆発事件は、反政府運動に参加する学生を狙った国軍の仕業だ。」
最後に「ここではウルドゥ語を話すな。パンジャブ人と間違われて撃たれるぞ」と真顔で冗談を付け加えた。



宿の並びの自動車部品屋。英語が話せ頼りにしていたRafullahさん(27歳)の店で、弟のサミュラッシャーさん(25歳、写真左)が店番をしていた。写真右はメカにクスのウスタッドカリムさん(20歳)。
「TOYO」や「OSAKA」などの日本製ベアリングは3,000Rs、韓国製は1,200Rsで売られていた。(OSAKAはここでは都市名より自動車部品メーカー名として有名。「TOYOTA」「HONDA」と並んでよく看板に使われるブランドであった。)



「Chamdni Paan Place」というPaan屋。



PaanをつくるSardarさん(33歳)。Paanは、細かく切ったココナツなど甘いもの数種を葉っぱで包んだスイーツ。白や黒のタレもたっぷりかけて見た目はグロテスク。予想通り、中身は甘いが葉っぱは苦い。1個10Rs程度。

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2010/3/8 国際NGO~Marie Stopes Society


3/7、宿に帰る途中、若者に付きまとわれていたところを助けてくれたMuhammad Aliさん(写真右から2人目)。彼がField Officerとして所属するUKのNGO「Marie Stopes Society」は女性と子供の健康に関わる活動をしている。2008年に開設したKhzdar事務所では、医者や看護士など25人のスタッフ(全員バローチ人。男3人女性23人)がいる。事務所での活動のほか、10グループに分かれて地域での訪問診療を毎日行う。(一箇所で診る患者は1日5、6人程度だそうだ。)

写真は3/8にNGOの事務所を再訪問したときに撮影。AliさんとArafiq Danishさん(District Program Officer、写真中央)のほか、若い女性スタッフもとてもモダンで英語が話せた。さすがに写真と撮られるのを拒む女性もいたが、Asiaさん(写真右)は今時の若者らしくケータイで私の写真を撮っていた。Sabaさん(コミュニティカウンセラー、写真左)は外国人に興味津々でツーショットで写真を撮って喜んでくれた。このNGOの事務所内では、昨日訪れた市場と同じKhuzdarにいるとは思えない雰囲気だった。

この後、Aliさんが地域診療を見学させてくれるという予定だった。
実はKhuzdarに外国人が訪れるにはVISAの他に許可証がいるらしく、まずはAliさんと役所へ寄った。AliさんはDistrict Officerとは知人であり、厳しいセキュリティチェックを受けたものの、何かの打ち合わせ中であったDistrict Officer、Mir Iqbalさんと面会することができた。理解のある人で、パスポート・VISAをチェックして2、3の質問をしただけで私のKhuzdar滞在を許可してくれた。地域診療の見学には警備のPoliceを付けてくれるとも言ってくれた。
礼を述べて、Aliさんと一旦、宿へ戻った。

Aliさんへ警察から連絡があり、そこから雲行きが怪しくなった。なぜか夕方まで一歩も出れずに警察を待たされた。ようやくDeputy Superintendent of Police(副警視官)が部下を連れてやってくると、「今日中に州都クエッタ(Quetta)へ行け」と言い出した。結局、明日の出発と約束して、今日は街を見ると我がままを通した。しかし、警察車両で街を通って郊外の警察署まで連れて行かれただけで、当然まったく面白くない。地元の人が気づかないようにミラーガラスの窓も開けられなかった。



宿に戻っても、部屋の外ではライフル銃を持った警官が警備をしていた。外国人を警備しているのだろうが、私にとっては軟禁である。(はじめに泊まった宿は「外国人をこれ以上泊めたくない」と3/8の朝に追い出され、町外れの宿に移っていた。)
3/9の朝、クエッタ行きのハイエースを待つ間、ようやく「ホテルの前だけ」外に出ることが許された。街の様子を一昨日までにもっと撮っておけば良かったと後悔しつつシャッターを切った(写真)。



3/9撮影。一晩中ずっと警備していたPOLICE。すぐに外に出たがる態度の悪い外国人(私)に手を焼いたであろう。お疲れさま。

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2010/3/9 クエッタ~Al Mocho村


午後、クエッタ(Quetta)に到着。街の中心部には中層の建物もあるが、アフガンからの移民も多く、地域色の濃い独特の雰囲気だ。写真は、路上の床屋・靴磨きが集まる大通りの一角。歩道側でなくて道路の中央なのが面白い。(関連記事

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床屋を撮っていると「髪を切られる間、上着を持っていてくれないか」と声をかけてきたSami Ullahさん(写真中央)。路上の床屋は安いので庶民に人気があるそうだ。(カット15Rs、ヒゲ剃り5Rs)



ブラウィ(ブラーフィー)語を話すSami Ullahさんは軍隊に所属するコマンダーだそうだ。片言の英語だが親切に彼の村へ案内してくれた。バスで郊外のAl Mocho村へ(写真)。

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線路上にいた子供たち。この村にはブラウィとパシュトゥンと二つのコミュニティがあるそうだ。



闘鶏の一種だろうか。大切に鳥を運んでいたおじさん。



Sami Ullahさん(写真中央)の家へ。6人兄弟1人姉妹で父はすでに他界している。質素な家だが、貧しくも客人をもてなそうとする気概を感じた。お母さん(50代後半)が私の前に普通に現れて、話してくれたのが嬉しい驚きだった。未亡人とはいえ、ムスリム女性では珍しいことだろう。夕食をご馳走になっただけでなく、お土産に国民服(シャルワール・カミーズ)や帽子を頂いた。とくに薄くて涼しいシャルワール・カミーズは旅行中ずっと愛用した。
「泊まっていけ」と言われたが帰ることにした。バスがないので自転車で送ってくれて本当にお世話になった。

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2010/3/10 Pakistan English Coarching Centerで授業参加


クエッタ(Quetta)の東には山並みが迫る。市街地の標高は1,700mほどあるが、この時期でも朝は涼しくても日中は暑い。



街の至る所に軍の詰め所が設けられている。今日から国民服(シャルワール・カミーズ)を着ているので、なおさら日本人はハザラ人に見られる。クエッタで職務質問を受けたのは、この場所が最初で最後であった。
写真は、家具屋「Amanullah Furniture House」の店員Mussawir君(15歳)。職務質問で通訳をしてくれた。写真左はシーア派のモスク。少数派だが、クエッタではペルシア人(イラン人)やハザラ人(ともに彼らはシーア派)もよく見かける。とくに黒ブルカの女性が目立っていた。多数派のスンニ派は「シーア派はムスリムでない」と言う人が多かった。



Mussawir君を撮っているときにMuhammad Nadar君(16歳)が英語で声をかけてきた。将来は英語の先生になりたいそうで、彼の通う学校(Pakistan English Coarching Center)に同行した(写真)。



Nadir君が出席した授業に参加させてもらった。1クラスは15人ほどで12歳くらいから大人までが一緒に学ぶ。今日のテーマは「wish」(「<仮定法を導いて>(現実に反して…であればよいと)願う」)について。一人一人に過去の(小さい頃に持っていた)願望は何だったか、将来の願望は何か、を聞いて皆でデスカッション。もちろん全て英語で現地語は一切使われない。かなり聞き取りは苦戦したが、下手でも発言できる雰囲気が良かった。ただ、日本人の語学力は大したことない、とは思われただろう。



生徒たちの過去の願望は、圧倒的に「クリケット選手になる」が多かった。将来の願望は「医者」「先生」などが多く、中には「善人でありたい」という人も。すでに実際の目標に到達しつつある青年もいた。クラスには女子も2人いたのだが、堂々と「大統領になる」と言っていた。パキスタンに限らないが、貧しい途上国の若者には優秀な人材も多い。日本の発展は、いわゆる「平和」によって成り立って来たのだと実感する。

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2010/3/10 Bangal Street(ショッピングモール)


授業に誘ってくれたNadir君(写真左から2人目)と、Bangal Streetにある、彼の父(写真左)の店へ訪れた。女性用のサンダル屋で一足200~400Rs。中国製も多い。収入は月に15,000~16,000Rsだそうだ。



Nadir君の伯父Abdul Malikさん。Bangal Streetの長でもある。



金アクセサリー屋の前でサンダルを売るAhamad Khanさん(23歳)。



店番をするRoman Khan君(13歳、写真中央)。



写真はRoman Khan君(写真中央)の店のあたり。各ショッピングモールには警備員がいて、Bangal Streetでは一緒に同行してくれて助かった。

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2010/3/10 Wali Muhammad


Bagmal City Center streetでカバン屋を家族で営むFazal Muhammad君(18歳、写真中央)。兄Wali Muhammad君(20歳、写真右)とその友人Wali Khan君(20歳、写真右から2人目)は医療系の学生。Jamilさん(無職、33歳、写真左から2人目)のみバローチ人で他はパシュトゥン人。
Wali Muhammad君は英語を話せ、毎日のように会って話をした。



Bagmal City Center street。Sriman Sha君(写真中央)。



3/11撮影。Circular Rdの市場にて、屋台売りのAbdul Marikさん(19歳、写真中央)。
市場では特にドライフルーツが目立った。アフガンからの輸入で、さらにクエッタ(Quetta)から海外へも輸出されるそうだ。



3/11撮影。Wali Muhammad君(写真左から2人目)に案内された服飾店舗ビル。市場より高級品がそろう。裕福な女性客が目立った。



3/11撮影。



3/12撮影。Wali Muhammad君(写真左から2人目)が「ぜひ泊まりにきて」と言ってくれて一晩お世話になった。彼は7人兄弟6人姉妹の長男で、父はすでに亡くなり、叔父さんの家で暮らしている。やはり客人は出入口に近いゲストルーム(離れ)に通されるだけで、母屋にいる女性たちに接することはない。(小さい女の子が窓から覗きに来るくらいである。)写真はKatarというゲーム。

医療系の学生であるWali君は博識だし、良い教育を受けたことが窺える。
ゴミ拾いよりも物乞いの方が金持ちが多いこと。Pimp(売春を斡旋するぽん引き)や、物乞いをさせて金を取る闇業者・個人がいることなども話してくれた。

そんなWali君だが、「将来、パキスタンの独立(?)のために軍隊に入って米国と戦いたい」と言う。あくまで「米国民ではなく、米政府が嫌い」なのだそうだ。9.11同時多発テロの当時まだ小さかった若い世代は、Youtubeなどの動画を通して、アフガンやイラクでの戦争を知っている。
彼の支持政党はJamaat Islami(関連記事)であったが、彼の古いパソコンで見せてくれた動画は、パシュトゥンの伝統音楽とともにパキスタンタリバーン運動(TTP)のゲリラ活動を宣伝する、過激な内容であった。あえて大げさに気勢をあげるWali君に乗せられて、弟たちは大合唱をしていた。
彼らはタリバンの起こしたと報道されるテロ事件の全ては米国の組織だと思っている。(具体的にはブラックウォーターなど民間軍事会社の名をあげた。)
私は「一部はそうだとしても、大半はイスラム過激派の仕業だと思う」と率直な感想を述べた。とにかく(自分も含めて)双方のメディアの情報を鵜呑みにしてはいけない、ということは同意見であった。そして、まだ分別のつかない小さい子供たちが一方的で過激な動画ばかり見ているのは良くない、という意見にも理解を示してくれた。彼は十分に広い視野を持ちあわせていたので、私は本音をぶつけることができた。

一方で、Wali君は日本人女性が好きで、「(親の決める相手ではなく)日本人女性と結婚したい。」「別に相手にはイスラムへの改宗を求めない。(改宗することで相手の親に反対されるなら、むしろ改宗しないで良い)」とまで言っていた。



夜、Wali君の親戚2人が来て、同じく客間に泊まった。
アフガンのカンダハールから来たKarm Khanさん(写真右)は、タリバンだと紹介されたが、普通のマドラサ(神学校)の学生であった。もう1人のDost Muhammadさん(写真中央)はChaman近郊から来ているそうだ。
3/13撮影。



3/14撮影。Wali君の従兄弟、Akhtar Muhammad君。

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2010/3/12 Ayub Stadium(1)~Awtan(パシュトゥンダンス)


Wali Muhammad君(写真左)に連れられて市内の競技場へ行った。毎週金曜(イスラムの休日)にクリケットやホッケーという人気スポーツの試合のほか、パシュトゥン相撲も行われる。写真は、Ayub Stadiumで会ったWali君の友人たち。



パシュトゥン相撲の始まる間、パシュトゥン人の伝統ダンスAwtan(アタン)を踊る人々。太鼓とラッパの楽器もあった。



輪になって盆踊りのように踊っていたが、皆できれいに合わせる雰囲気でもない。それぞれが楽しんで踊れば良いという印象をもった。



やがて、踊りは音楽とともに激しくなっていった。







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