2010/4/3 「微笑む男の子」への手紙渡し

現地からの報告「旅だより~ 2010/4/1 「『微笑む男の子』への手紙渡し」の続きです。



3/29にAbbokir君に再会し、4/3にようやく手紙を渡した。前回訪問時は幼児という印象もあったが、背も伸びてすっかり少年に見える。今は6歳になった。(関連記事
写真左は前回もいたHadid Ullah君(16歳)。Abbokirの父の弟になる。去年学校をでて、この店(Abbokirの父Muhammadさんの店)を手伝っている。



手紙を渡され、折り紙の孔雀を手にとって笑顔を見せるAbbokir君。



Abbokir君にとっては、日本からの手紙と言われてもピンと来ないのだろうが、父親Muhammad Ullahさん(写真右、27歳)や伯父Roohullahさんら大人が歓喜した。(それを見たAbbokir君も得意げな様子だった。) 彼への手紙は1通だけだったが、その手紙の主である日本人女性の名を覚え、「次回は是非、連れて来てくれよ」と何度も言われた。
写真は、手紙の返事を書くAbbokir君と父親のMuhammadさん。(もともと彼らはアフガンのKapisa出身でMuhammadさんの両親がペシャワールに移ったそうだ。)



ウルドゥ語で書かれた返事の手紙。



Hadid君とは兄弟のように仲が良い。



従兄妹のHanif君と近所の友達Attaullah君(ともに10歳)。



今回の手紙渡しで最も近場にいるAbbokir君だが、3/23にペシャワールに来てから渡すまでに随分と日が経ってしまった。彼らの店のある場所は旧市街の目抜き通りKissa Khwaniに近い路地モハラジャンギにある。前回訪問時からの顔見知りも多く、今回も毎日のように通った道だ。はじめにAbbokir君を見つけて店へ行ったのは3/29の夕方で、翌日に写真を渡す約束をした。しかし、当日の朝にAbbokir君が店内で転んで頭を縫うを怪我してしまい、しばらく会えなかった。店では血痕もあって心配したが、4/3にようやく元気な姿を見ることができたのだった。写真は、縫った跡を私に見せようとガーゼを取る父MuhammadさんとAbbokir君。



父に遊んでもらうAbbokir君。



4/6撮影。彼らのシューズ・マテリアル店(金具・靴材料屋)。辺り一帯には同じような店が並んでいる。



4/6撮影。近くの店の子Shoaib君(5歳)とは仲良しである。



4/6撮影。Abbokir君の伯父であるRoohullahさん(写真後ろ)は、とても陽気な人で、いつも冗談ばかりを言っていた。英語をカタコトで話せるのだが、通行人を指差して「What a beautifull マシコーレ!」(「マシコーレ」とはロバの子供の意らしい!?)等と言ってからかい、子供たちと一緒になってはしゃいでいた。(Abbokir君が頭を怪我したときも冗談ばかりを言っていて、本当なのかが信用できなかったくらいである。)



4/6撮影。お茶を沸かすHadid君。(パンジャブではインド同様にチャイ(紅茶)が一般的であるが、パシュトゥン人にとってお茶と言えば、カワという緑茶である。) Hadid君は、私が風邪ぎみのときにすぐに薬を用意して飲ませてくれたり、とても気が利く青年であった。



4/6撮影。父の商売でアフガンのPaktiaから来ていた少女。
一緒に昼飯を食べた後、帰路についた。



4/6撮影。この日のAbbokir君は、目の周りに黒い化粧(?)をしていた。(服は、フレンドリーポストカードの写真と同じである。)



4/6撮影。



4/17撮影。この日はAbbokir君の姿が見えないと思っていたら、奥で昼寝をしていた。学校から帰ってそのまま寝ていたらしい。



4/17撮影。近所の子供とふざけ合い。



4/19撮影。



4/19撮影。隣の店にて。いつもは伯父Roohullahさんと笑い転げているAbbokir君だが、ふと見せる真剣な表情は大人びている。



4/19撮影。



4/19撮影。



4/19撮影。



4/19撮影。



4/19撮影。近所のAbbokir君らとは家族同様の付き合いをしているNabigulさん(34歳)と息子のKashif君(10歳、Abbokir君と同じ学校の3年生)。同じくシューズ・マテリアル店を営み、釘などを売っている。この店は小さく1日に400Rsほどの利益だが、Abbokir君のところは500~1,000Rsにもなる。



4/19撮影。皆で昼食をとる。



4/19撮影。



4/19撮影。食後のカワの茶葉を買いにお使いに行くAbbokir君。



4/19撮影。買い物に向かった先は、私が前回訪問時から親しくしているHabibさんの駄菓子屋だった(関連記事)。確かに近所であり、なんら不思議ではないのだが、別々に知り合ってできた親友同士が実は友人だった、みたいな面白い気分だった。店番をするのはHabibさんの弟Azizさん。

この日は珍しく一日中晴れていたので、Abbokir君の写真もたくさん撮った。そして、この夕方に近くの目貫通りQissa Khwaniでの自爆テロが起きたのだった。(関連記事



4/22撮影。止まっている自転車にまたいで遊ぶAbbokir君。



4/22撮影。「また、転んで怪我するなよー」と、やんちゃ坊主に冷や冷やさせられた。
この日はペシャワールを去る前日で別れの挨拶に立ち寄った。日本という国がどのくらい遠いかも分からないAbbokir君は、「またね~」という軽い感じでバイバイと手を振ってくれた。
このとき、同じ国を再訪問するメリットに一つ気づいた。別れる際の「さよなら」を、「また次も再会できる」という期待をもって言えることだ。現実的に深く考えるとやはり寂しくなってしまうので、私もあっさり挨拶して別れるように努めた。

Abbokir君の不在のときも含め、この店には10回以上は訪れた。この旅で最も多くカメラを向けたのは間違いなくAbbokir君だった。

※ 画像をクリックすると拡大します。




2010/4/14 「青い服の少女」への手紙渡し

現地からの報告「旅だより~ 2010/4/14 『青い服の少女』への手紙渡し」の続きです。


レンガ工場の場所は「Gharshin Stop」というバス停名が唯一の手がかりであった。とはいえ、前回はイスラマバード(というかRawal Pindi)から2、3日かけて自転車で訪れている。GT Road(バングラデシュのダッカからペシャワールを結ぶ街道。地元の人によれば、さらにロンドンまで繋がっているらしい…)沿いにあることも分かっているし、付近の様子も覚えている。ただ、バスステーションでバス停の名を訊いても、知っている人が少なかった。無名の停留所であることは確かなようだ。
結局、GT Road経由でRawal Pindiへ行くバスに乗った。(料金は200Rs(約212円)とられた。モーターウェイM1を通るRawal Pindi行きのバスは150Rs程度であることは知っていたので割高だと気づいた。タクシーや宿とは違い、公共のバス内では皆の目があるためボられることは稀だ。そう思って黙って支払った。が、実はあとで100Rs程度だったことが帰路で分かった。久しぶりに騙された。)
途中のNowsheraでは、去年私が自転車旅行を中断した原因となったテロ現場のモスクがあった(関連記事)。6、7割が倒壊し、廃墟になっていた。案の定、Nowsharaでは検問そして迂回で数kmを抜けるのに40分かかった。到着したのは昼過ぎで3時間もかかった。(M1経由ならRawalPindiまで2時間で着く。)
運転手に声を掛けられ、懐かしい風景に「ここだ!」と言って降ろしてもらった。Gharshin Stopで降りた人は私だけだった。あらためて見ると、レンガ工場の煙突以外はほとんど建物が見当たらない田舎である。

思い出の地へ再び戻ることは嬉しいものだ。1人で笑みがこぼれていた。
バス停の売店は人もなく、煉瓦を積んでいる男たちに声を掛けた。見覚えのある男性が1人いて抱擁の挨拶を交わした。売店の主だ(関連記事)。(前回に続いて店のペプシをごちそうしてくれた。)
誰も英語は話せそうにない。「青い服の少女」の写真を見せながら、カタコトの現地語で「日本からの訪問者で、10ヶ月前に来たとき、この写真を撮った。名前は知らないけど、この子はどこにいる?」と尋ねた。(ここはパンジャブ州だが彼らの母語がパシュトゥン語で助かった。私はウルドゥ語は全く話せない。)
皆、口々に「Mualim」「Mualim」という。彼女の名かと思っていたら、実は父親の名だった。(彼らも彼女の名は知らない。イスラム社会では父親の名が重要だ。人と会うたびに、自分の名とともに「父の名は?」と尋ねられるのが日本人の私には滑稽だった。)
売店でしばらく待つと、「青い服の少女」が連れてこられた。



彼女の名はKhastalala(ハスタララ)、7歳。この日は黄色い服を着ていた。この10ヶ月で見違えるほど大きくなっていた。背も10cmくらい伸びた印象だ。
大人たちの「どこで撮ったか」という質問に「煙突の裏」と答えていたようなので、私のことは多少覚えているようだった。それでも、とても恥ずかしがり屋の彼女は、連れてこられても直ぐに逃げてしまい、カメラを向けるどころか手紙を渡すのも簡単ではなかった。

 

彼女も含め、村の子供たちは学校へは行かず、小さなモスクでコーラン暗唱を通じてイスラムを学んでいる。訪れてみると、(カメラを見るとすぐに写りたがる)街の男の子とは違い、笑顔はくれるのにカメラを向けると、顔を背けてコーランを真顔で読み出すという純粋な子たちだった。見学を許可してくれたムッラー(先生)も自身の撮影は拒んだ。

 


 

写真の柱の手前が男子、奥が女子と場所が決まっているようだった。Khastalalaは私をチラチラと気にしつつ、コーランを読んでいた(写真中央上)。

 

写真右は、レンガ工場の取引先のAziz Gulさん。珍しくE-mailアドレスを持っていたため、彼らの状況を尋ねる連絡役をお願いした。(カタコトの英語だが、私が口頭でお願いしたことを「すべて理解できないから書いてくれ」と言い、真面目な人だった。内容は紙に記して渡した。)

 

レンガ工場の経営者Hamidさんが英語を話せ、忙しい中、通訳をお願いした。
まず、Khastalalaの父Mualimさん(60歳、写真左)を連れてきてもらい、彼に事情を話した。ようやく理解をしてもらって、Khastalalaを連れてきてもらった。
ここで驚いたのは、息子も含めMualimさんの家族は全員字が読めなかった。(アフガニスタンのクチ(遊牧民)であった彼らは、30年前(ソ連侵攻時)にジャララバードからパキスタンに避難してきた経緯がある。パキスタンの公用語ウルドゥ語も不自由だが、この一帯は同じくパシュトゥン語を母語とする人々が住んでいるので問題ない。)
現地語で書かれた日本からの手紙も彼らは理解できず、Hamidさんが読み聞かせてくれた。

 

彼女が手にしているのは、日本の4歳の女の子からの手紙。「青い服の少女」に興味を持ってくれ、まだ字が書けないので絵を描いてくれた。

 

彼女へは3組から手紙があった。訳が分からないであろうKhastalalaだったが、「日本の友人たちが、この写真のKhastalalaに興味を持って手紙をくれた」と説明すると、照れつつも喜んでくれた。

 

Mualimさんに家を案内してもらった。レンガ工場の側にある数軒の集落で、いずれも泥でできた簡素な家だ。
アフガンのクチ(遊牧民)からパキスタンに逃れ、レンガ造りの職人として定住した人々である。
写真中央でポーズを取るのは、Khastalalaの兄Rahim Ullah君(12歳)。前回訪問時も撮っている(関連記事1関連記事2)。

 

(写真は再掲載) 3つの部屋の一つ、Khastalalaら子供たちが寝る部屋。擦り切れた敷物があったが土間同様に使われている。7人兄弟で5人の兄、妹が1人がいる。 三男Saf Khan Ullah君(14歳、写真左)は次男Aman Ullah君(16歳、左から2人目)より背が高い。

 

渡した手紙とKhastalalaを撮っているとき、彼女を叱って強引に連れて帰った長男のUsmanさん(25歳、写真左)。父が許しても、兄として妹を撮られることを嫌がったのだろう。その後、だいぶ打ち解けたところで本人の写真を撮らせてくれた。

レンガ造り職人は厳しい肉体労働ではあるが(関連記事1関連記事2)、父Mualimさんは週に5,000Rs(約5,300円)を稼ぐ。これは予想外に悪くない給料だ。長男をはじめ次男(16歳)、三男(14歳)までも父と同じレンガ工場で既に働いている。この村の男には他の選択肢は眼中にないようだ。仕事はタフだが、それは当たり前だと思っているし、生活するには十分な報酬がある。
学校にも行かず、読み書きもできないが、さして不自由は感じていない。連絡・情報収集には携帯電話の方が役立つのかもしれない。
工場の経営者Hamidさんによれば、「公立学校の費用は高くはなく、彼らは貧しくて学校に行けない訳ではない。単に必要ないと思っていて学校には行かせたがらない」のだそうだ。モスクでコーランを最後まで学べば、読み書きはできるようになるらしいので、Mualimさんの息子らは最後までは学んでいないのだろう。

一般に、遊牧民はその暮らしぶりは質素だが、経済的には決して貧しいわけではない。家畜は高価なものであり、彼らの相当な財産を蓄えていることになる。何世代にも渡って営まれて来たであろう遊牧と違って、レンガ工場は30年、50年先も同じ高額な報酬を払えるとは限らない。そのとき、また一族は試練を迎えるのだろうか。

 

Khastalalaの妹Sale Khaちゃん(2~3歳)。とても愛嬌があって和んだ。

 

長男Usmanさんと親しくなった上で、ようやくKhastalalaを撮影できるようになった。



隣の家のShawazirさん(27歳)の家族ら。父はいず(病気?)、彼が大黒柱だ。一族はアフガンのジャララバード出身でやはり遊牧民からレンガ造り職人になっている。彼自身8人も子供がいるそうだ。言葉が通じず、詳しいことは聞けなかった。写真右下で敬礼をする少年は、前回訪問時も撮っているBasir Khan君(6歳)。

 
 



Shawazirさんの妹Hastabibi、10歳。



Shawazirさんの姪Taiba、11歳。2人とも昼にモスクへ訪れた時に私と会っていたそうだ。

 

私の帰り際に再会したNaeel(Nail?)Khan君(8歳、写真左)。モスクで見かけたときにKhastalalaにそっくりだと思っていたら、やはり兄弟であった。

 

日が暮れてもレンガ工場で稼動していた。

もう1人のフレンドリーポストカード「煉瓦工場の男」は不在で再会できなかったが、彼の名(Azamさん)だけは確認できた。

※ 今後、還元金の使途(関連記事)はもちろん、「煉瓦工場の男」についてもAziz gulさんから情報を提供してもらう予定です。


旅(2010夏)の雑感

帰国後、時間が経ってしまいましたが、今夏のインド旅についての報告。
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 2008冬に続いてのインド自転車旅行。一般に人々の衣服や暮らしぶりを見れば、生活水準が良くなっている気がした。(前回訪問地の方が貧しい地域だっただけかもしれない。) 田舎では相変わらず外国人は珍しく、東洋人の顔は「ネパーリ」(ネパール人)だと間違われる。一方で、(日本人だと知った上で)「インドはグレートか?」と自信ありげに訊いてくる人も目立った。

■暑さ、そして雨...
 雨期ということで行き先は西部の乾燥地帯を目指した。さすがに日差しが強く、帽子(ハット)を被っていたのに1日目で鼻の皮が剥けるほど日焼けをした。(2日目以降は長袖を着用し、大きな街に行った際に日焼け止めクリームも購入した。) 大量の水分補給には現地の水も気にせずに飲まざるを得なかった。
 一方で冠水した道路もいくつか出くわした。(この点、実は自転車は強い。バイクや乗用車が動けない深さでも、自転車は押して歩くだけ。)地域によるが夕方などに豪雨に見舞われることが多かった。涼しくなるので地元人と同じく、私も歓迎したいのだが、写真が撮りづらくなる。突然の豪雨には、雨宿りできる建物や木が周り無ければ、持参したブルーシートを被ってしのいだ。とにかく晴れても雨でも自転車旅行はキツかった。

■テント暮らしの人々
 そんな中、私が興味を持ったのは、テント暮らしの人たちだった。期間労働者、遊牧民(レバリなど)、鍛冶職人(ガドゥリア・ロハール)などの非定住・半定住の人々である。遊牧民については、一般に雨期は遊牧せずに自分の村に戻っているのだが、遊牧中の姿も見ることができた。非定住の人々は、政府の意向もあり定住化が進んでいる。カーストで職業が固定されている上に教育を受けていない彼らは、結局、農場や建設現場の労働者となることが多いようだ。


■日程
・ 7/20 - 7/28 首都デリー、ハリヤナ(Haryana)州
(主な訪問地:Delhi,Rewari,Narnaul)
・ 7/28 - 8/12 ラジャスタン(Rajasthan)州
(主な訪問地:Chirawa,Jhunjhunun,Churu,Bikaner,Phalodi,Jodhpur,Falna )
・ 8/12 - 8/24 MP(Madhya Pradesh)州
(主な訪問地:Ratlam,Jaora,Alote,Agar,Sarangpur,Shajapur)


Posted at 2010/09/15 23:40 | 雑記 | COM(0) | TB(0) |

第2弾 カラーシャ族(20種) フレンドリーポストカード販売

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「パキスタン2009/8」(カラーシャ族)のポストカードを販売開始。2010.11.11~
売上げ一覧にて購入者(所在地・イニシャル)を公開させて頂いています。

1セット(2枚組)¥150. 詳細はこちら ↓
売上げは全額、ルンブール福祉文化開発組合の緊急支援に寄付します。当組合はカラーシャ族の生活改善、文化保護などを行うNGOです。代表 わだ晶子さんは20年以上前から地域に根ざした活動を実践しています。私自身も現地で大変お世話になりました。
 パキスタンでは夏の大雨による洪水の影響が未だに続いています。国際支援は主な被災地にしか届いていないのが現状のようです。( 参考:国連UNHCR協会「パキスタン洪水緊急支援」
販売価格
 1セット 150円、 10セット 1,000円
※1セット=同種2枚組。1枚は友人にあげるなり、誰かの手に渡ると嬉しいです!
仕様
 100×148mm・ホワイトアートポスト220kg、高精細オフセット印刷(200線標準)
※ポストカードは透明ケースに入れ、丈夫な厚紙封筒で郵送します(写真)。
クリックで拡大表示します送料
 一律300円 ※1,500円以上お買い上げで送料無料!
管理人(横塚)が長期不在中は代理人が発送します。
支払い方法
 商品の到着後、「旅みち」への支払い、またはルンブール福祉文化開発組合に直接寄付しても構いません。(その場合、領収書などの送付をお願いします。)


クリックで詳細情報/注文画面を表示します。

カラーシャ族【10セット】
 10種20枚で1,500円⇒1,000円に割引

「スカーフ遊び」 2009.8.10

「魚捕り」 2009.8.11

「ぶら下がり」 2009.8.11

「抱っこ」 2009.8.12

「姉妹」 2009.8.12

「炊事場にて」 2009.8.13

「水路の休憩場」 2009.8.13

「幼子」 2009.8.16

「背中合わせ」 2009.8.17

「戸口の少女」 2009.8.20

「子守」 2009.8.20

「食いしん坊」 2009.8.21

「祭事の情景」 2009.8.22

「谷の眺め」 2009.8.22

「帽子をさわる少女」 2009.8.23

「昼寝どき」 2009.8.24

「木に登る少女」 2009.8.24

「のぞき込む少女」 2009.8.26

「うたた寝」 2009.8.26

「泥だんご」 2009.8.30



【売上げ一覧】 カラーシャ族(2012/3/3現在)

カラーシャ族フレンドリーポストカードの売上げ全額を寄付するにあたり、買い手が寄付金額を確認できるように所在地と名前(イニシャル)を公開させて頂いています。この売上げ金額と、寄付金額を公にすることで、お金の流れを見えるようにしたいと思います。
(ショッピングカート以外からの注文の集計漏れ予防も期待しています。お手数ですが、誤りがある場合はご連絡ください。)



ご協力して頂き本当にありがとうございます。
興味がありそうな友人・知人がいましたら、ぜひ紹介して頂ければ幸いです。
(まだまだポストカード制作費にも遠く及びません。。。応援、宜しくお願いします!)


※カラーシャ族分のみです。(第1弾フレンドリーポストカードの売上および還元金状況はこちら

発送済み
2010年11月福岡県北九州市小倉南区N さん1,000円
千葉県流山市Y さん2,000円
神奈川県横浜市西区I さん3,000円
愛知県名古屋市緑区K さん1,000円
静岡県浜松市東区Y さん1,000円
愛知県長久手町A さん1,000円
熊本県山鹿市K さん1,750円
東京都墨田区S さん1,000円
神奈川県横浜市緑区T さん1,000円
2010年12月神奈川県海老名市O さん2,000円
熊本県大津町H さん1,000円
神奈川県相模原市中央区G さん1,500円
佐賀県佐賀市W さん2,000円
奈良県斑鳩町K さん2,000円

第1期(11/11~12/17)売上21,250円
東京都狛江市M さん2,000円
千葉県習志野市M さん1,500円
北海道札幌市豊平区T さん2,000円
長野県塩尻市S さん2,000円
2011年2月6日、フリーマーケット4名700円
神奈川県横浜市神奈川区F さん450円
東京都狛江市I さん450円
2011年3月神奈川県横浜市南区M さん1,050円
2011年11月東京都杉並区H さん600円
神奈川県横浜市戸塚区M さん2,000円
2011年12月東京都板橋区K さん450円
2011-2012年ネネカフェ販売分-1,350円



売上合計額 35,800円

2010/12/17、第1期の売上21,250円を寄付しました。
横塚が海外撮影旅行で不在になる前後で区切りました。
(入金した事実を明確にする手段は検討中・・・。)
※ 今回は、1月に現地訪問する静江さん(わだ晶子さんの「AKIKOの家」の活動を手伝っている方)を通してルンブール福祉文化開発組合の口座に入金されます。



旅(2010冬)の雑感

■7年ぶりのエチオピア
 ちょうど7年ぶりに訪れたエチオピア。修士3年生(半年休学)だった当時は、とくに北部の岩窟教会に興味があった。ラリベラ(Lalibela)でのエチオピア正教のクリスマスのほか、南部の裸族など、観光として充実した思い出がある。(一方で、南京虫に体中がボコボコになった記憶も・・・。この「エチオピア2003」はポジフィルム撮影ですが、スキャンしたものがあるので、先立って公開します。)
 2003年は旱魃で食料配給も行われており、貧しい国という印象が際立っていた。現在では、幹線道路の舗装化がかなり進み、携帯電話の使用範囲が日々広げられている状況だ。(やはり中国パワーが絶大。)
 当時から、エチオピアはアフリカの中でも観光資源が豊富で旅行者にとても人気がある国だ。貴重な収入源として、観光地化が進むのも当然の流れかもしれない。


■南スーダンとの隣接地域
 今回は、およそエチオピアらしくない西部ガンベラ(Gambela)州に滞在していた。ここは以前、スーダン領でもあった地域で、現在でも南部スーダンの関わりが深い土地だ。長年の民族移動のほか1980年代ごろからは難民も流入し(2006年以降多くの難民は帰還)、現在でも、元スーダン人であるヌエル(Nuer)人が住民の多数派を占めている。もちろん、南部スーダンの独立投票が1月9日から始まることを意識して、元難民などに話を聞いて回っていた。
 スーダンの北部政府(イスラム教徒中心)と南部(キリスト教徒中心)との対立になぞらえ、「日本はイスラム教徒側か?キリスト教徒側か?どっちの味方だ?」と問いただされることもあった。
 ガンベラ州では、圧倒的にキリスト教徒が多く(南スーダン人は主にプロテスタント、アビシャン(=アビシニア人。ここでは黒人・スーダン人に対してエチオピア人(エチオピア高原の各民族の総称)として使われていた)は主にエチオピア正教)、南部スーダンの独立を待ち望んでいる。(エチオピア全体では、エチオピア正教50%に次いでイスラム教が30%と多い。)
 実際には、「独立後にすぐに故郷に戻る」という人よりも、(南部スーダンでは教育システムが十分でないので)学業を終えるまではエチオピア側で過ごす若者が多かった。


■写真ぎらいな人々
 アビシャン(エチオピア人)も含め、ヌエル人など黒人(スーダン人)も写真に撮られるのを好まず、歯がゆい思いを随分とした。せっかく長い間一緒に話して親しくなっても「写真は撮らないで」と言う人、そして、市場などで売られている物に対しても「金をくれなきゃ、撮ったらダメだ。」と冷たく言い放つ商売人が実に多いのだ。
 そもそもPignudoという町では、首長から直接、村での写真はもちろん市場の写真すら全て撮影禁止と言い渡された。「撮ってくれ」という人々の写真も、宿の従業員でさえ一切ダメだと言うのだ。(この町には難民キャンプがあり、特殊な事情があるのだが、それにしても驚いた。)

 こうした事情とは別に、写真に不慣れで、カメラを向けられた途端に固まってしまう人も多かった。(IDカード用の証明写真しか撮られたことがないのかもしれない。。。) しかも本当に1枚しか撮らせてくれなかったり・・・。

 今回の写真のほとんどは、相手にカメラをあまり意識させないようにノーファインダー(カメラのファインダーを覗かずに撮ること)で撮っている。細かい構図は決められないが、(カメラから顔を出して)相手と話しながら表情を追っかけて撮れるのが利点だ。(普段から、わりとノーファインダーでも撮るが、今回は尋常でなかった。)
 こうした状況なので、いつも以上に1枚1枚の重みを感じて撮影した。(フィルム撮影時には常にあったのかもしれない・・・。)


■病気などのトラブル
 エチオピア入りした翌日から2日かけてガンベラに到着。その日の夕方、いきなりグーで殴られた。精神異常者らしいが、ひと言ふた言の会話後に不意に顔面を強打され、鼻血ブーだ。警察沙汰にもなった。(数日間、鼻が痛かったが、幸い怪我はなかった。) 写真を撮るどころか、カメラを出す前のトラブルにまさに出鼻をくじかれた。

 エチオピア高原は朝晩は冷えるのだが、滞在したガンベラ州は低地で暑い。マラリアも多い。一般に地元の人も蚊帳の中で寝る。今回は節目節目で体調を崩し、エチオピア正教の行事(クリスマス、ティムカット祭)にはあまり触れられず、結果的にエチオピアにいるスーダン人の生活を見るのに専念することとなった。一般にアフリカにおいては、黒人と白人の間の褐色肌のアビシャン(エチオピア人)が特殊なのだろうが、私にとっては、エチオピアにいるナイル系の黒人たちの方が興味深かった。(順調に行けば、南部スーダンは今年7月に独立する。そうしたら「皆で踊って祝うよ」と言っていたヌエル人たち。すぐに帰国せずとも彼らの生活の大きな節目になることは間違いなさそうだ。)


■中流家庭
 最後に、一番に嬉しかったことは、7年前にお世話になった後(一度手紙を送ったきり)音信不通であった現地人の親友に再会できたことだ。(首都アジス・アベバ(Addis Ababa)で、当時の写真の風景と記憶を頼りに、彼の実家を再訪問できたのだ!) 首都に滞在した初日と最後にお世話になり、とくに帰国前にマラリアになっていた私の面倒をよく看てくれた。
 彼は、自動車整備工で1日12時間も働いて、月収はようやく5,000~6,000円。過労ぎみだが家族を養うために必要なのだそうだ。

 アジス・アベバでの中流階級の平均収入は3,000~4,000円程度。養育費がかかるため、一般に子供の数は1~2人が多いそうだ。単純労働者の月収は1,500円程度だ。安い食堂で1食70~100円。コカコーラ1瓶が約35円。一般市民は物価上昇についていくのが精一杯だと言っていた。一方、(地方では未だ殆どないが)自家用車(主に100~200万円の中古日本車)も目立つようになった。経済発展中のエチオピアでも貧富の差は広がっているようだ。



■日程
・ 12/22 - 1/21 エチオピア
(主な訪問都市:Addis Ababa,Gambela,Itang,Pignudo )




Posted at 2011/01/29 00:00 | 雑記 | COM(2) | TB(0) |

2011/4/10 岩沼市(1)~泥かきボランティア

4月9日~14日(現地滞在5日間)、宮城県の被災地へ1人で赴いた。(カメラマンとしてではなく、1ボランティアとしての活動なので、あまり写真も撮っていない。)
 出発時の情報では、個人の県外ボランティアを受け入れているのは、宮城県岩沼市、亘理町などに限られていた。両方に問い合わせて、よりニーズがありそうな岩沼市に入った。(現在は、他の市町村でも続々と受け入れている。)

 岩沼市は仙台市から南へ20kmで人口4.4万人。農業がさかんである一方、仙台のベッドタウンでもあるそうだ。滞在中、朝方に雪が降った日もあったが、昼間はかなり暖かかった。4/18朝日新聞によると169人が死亡、約20が行方不明、約530人が避難となっている。
 この辺りは、常磐自動車道(仙台東部有料道路)の盛り土が防波堤となり、多くの市街地を津波から救ったと評価されているが、現地の方からも「もともと高架で建てる計画もあったが、津波を想定して盛り土にした」という話を聞いた。
 私は自家用車の車中と名取市のネットカフェで寝泊まりした。食料はパンなど持参したものを食べるようにしたが、すでに多くの店が通常営業をしており、チェーン店の牛丼屋やラーメン屋、回転寿司まで揃っていた。コンビニなどの店で、場所によって品薄と感じたのはミネラルウォーターや乾電池くらいだ。他に出会った県外ボランティアたちは、若者は車中やテント泊、年配者は仙台などでビジネスホテルやカプセルホテルに泊まっている人もいた。(私の車中泊の難点はシャワーを浴びれない点だったが、アフガンやエチオピアへでも行ったと思えば、苦ではない。逆に、1日に何十回も余震が起きる状況では、かえって車中で安心したこともあった。)



県道10号線沿いの風景。ボランティア活動のあと、1日だけ折り畳み自転車で町内を走った。漁港のない岩沼では、海辺の集落は少ないようだったが、多くの農地が塩水に浸かってしまっていた。






訪れた家は、どこも高さ1mほど浸水していて、家の片づけ・掃除、ゴミや溜まった泥の除去が主なボランティアの仕事であった。毎朝、ボランティア受付場所に並んで仕事を待つ。日雇い労働者のような具合である。そうして、6~10人程度ごとに依頼者の家に派遣されて活動する。(私の滞在中、ボランティア数は1日170~200人くらい。)
 写真は4/11午後の作業の休憩時間にて。依頼主の佐藤さん(写真右から2人目)は陽気で、自身がケータイで撮った津波の動画などを見せてくれた。多くの依頼者は、自身の被災時の体験を好んで語ってくれた。流し台の上で夜中まで水が引くのを待った話、家畜の死体が大量に流れ着いた話など・・・。1人暮らしのお年寄りも少なくなく、話し相手としてもボランティアは役に立つと思った。



赤い上着で作業するのが私です。(写真提供:宮内健さん



4/12午後に作業をした下野郷学習館。旧玉浦小学校下野郷分校であり、現在は学童保育として、親が共働きの小学生など30名ほどが利用していた。管理人さん(写真中央)によると、震災の日、地震時には生徒が1人残っていて、すぐに帰らせ、自身も津波が来る前に避難したそうだ。築60年になる建物だが、地元では親しまれており、今後も利用する方針だそうだ。

 ボランティアの内訳は、週末では地元の人が目立ったが、徐々に県外からの個人ボランティアが増えて、過半数を占めているのでは、と思うほどであった(グループでくる若者も多いが、単独で来る年配者も目立った)。この日の午前の作業では、6人組のうち、私も含めて5人が県外で、神奈川、群馬県、埼玉県、静岡県、滋賀県から来ていた。(通常は地元の人が担当するリーダーに、活動経験が長かった私が任されてしまう有様だった。)
 依頼者は、「わざわざ遠くから来てありがたいねえ」としきりに感心していた。1回では片付かないので、多くの家は何度もボランティアを頼むことになるのだが、扱いに慣れている家では、缶コーヒーをもてなしてくれたり、「今日はどこの県から来てくれたの?」なんてボランティアとの会話を楽しむ方もいた。

 この頃、県外からボランティアが入りやすくなる一方、受け入れ先の市町村が限られていたため、岩沼市では過剰ぎみになっていたようだ。受付に遅めに並んだボランティアには仕事がない状況も出ていたと聞いた。石巻市で県外からも受付はじめていたので、そちらに移る人もいたようだ。(ボランティアを県内・市内在住に限る市町村は、地元のボランティアが多くてまかなえる場合と、受入れ機関・施設が被害を受けて体制が整わなかったり、交通インフラの復旧が不十分であったり、まだ遺体捜索の段階である場合などが考えられる。おそらく仙台市は前者だろうが、石巻市などは後者だったようだ。石巻では毎日500人のボランティアが活動しているが、それでもまったく足りていないと聞いた。)
 とはいえ、現地を見れば、岩沼でもまだまだ人手が必要なのは明らかである。ボランティアセンターの方でもニーズの掘り起こしに力を入れていくようだった。「ボランティアは被害の大きい地域に行きたがる」という話も聞く。確かに、やりがいを求める気持ちはあるだろう。より必要とされる場所を求めるのは当然だ。私が現地で出会った(個人で現地入りをするような)連中には、しっかりと現地のニーズに合わせて役立ちたいと思っている人が多く、頼もしかった。
 車の移動で渋滞を起こすなど迷惑をかけては本末転倒だが、現地で活動できる人は、準備と覚悟をもって行ってみれば良いと思う。必ず現地の人の力になれる。少なくとも今の岩沼の復旧活動は、県外ボランティアによって支えられていた。私も一過性でない継続的な協力をしていきたいと思う。

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